三河島(荒川)、日暮里、南千住、町屋と地域の紹介をしてきましたが、今回からは尾久を数回に分けて紹介したいと思います。尾久と聞いてモヤモヤしてることはありませんか?そのモヤモヤを晴らしていきましょう。
「尾久」の読み方が「おぐ」なのか?「おく」なのか??どっちなんだよ???
とモヤモヤしてませんか?JRの駅は「おく」なのに、地名を呼ぶときは「にしおぐ」「ひがしおぐ」で「にしおく」とか「ひがしおく」とは呼びませんよね?
歴史から尾久の由来を見てみましょう。
隅田川に面した低地の尾久の歴史は浅いように思われますが、古代から人が住んでいた形跡があります。今は失われてしまいましたが尾久の各地には十三坊塚、ダイダラボッチ塚、第六天塚・・・などの古い塚があり、武具などが出土し古墳であったと伝わります。低地を開拓して古くから人の住む歴史のある地域であったことが分かります。
大和政権が実施した条里制の痕跡が尾久にあります。大化の改新後に土地を国家で管理し、租税徴収のために農地を農民に与え、その土地を正方形に区画して碁盤の目状に整理したものを条里制と言い、その痕跡が尾久にあったと言います。
隅田川が形成した自然堤防の微高地の上に集落が営まれていったと思われますが、尾久の地名が文献上に現れるのは鎌倉時代に入ってからです。尾久は鎌倉の鶴岡八幡宮領になり、そこから勧請された尾久八幡神社が置かれて尾久地域の鎮守となっています。鎌倉時代の1316年の板碑が残されています。室町時代の1399年、関東管領(室町幕府の職制で関東を統括していた)上杉朝宗の書状に「小具郷」と出ているのが尾久の地名の初見です。小具郷と呼ばれた中世の尾久は現在の尾久地域だけでなく金杉(東日暮里、台東区根岸)や北区堀船、田端方面まで含む広い範囲だったようです
鎌倉幕府の歴史書である吾妻鑑(あずまかがみ)には「武蔵国豊嶋庄犬食名」という地名が出ています。これは別に犬を食っていたわけではなく、「おぐ」を「大食」と言う漢字を当てて表していたものを、書き間違えて「犬食」になってしまったのではないかと言われています。他にも「小具」「越具」「奥」とも表記されています。これを見ただけではどちらともいえないように思われますが「おぐ」であったのかなということは推察されます
室町時代、太田道灌が江戸城を築いたころに書かれたと言われる長禄江戸図には「尾久」の地名が出ています。「尾久」と書かれるようになったのは室町から江戸時代にかけてで、それ以前はいろいろな漢字を当てて表示していたようです。江戸時代に入ると上尾久村、下尾久村、船方村が成立したようです。尾久の原はサクラソウが自生する美しい場所で、農村地帯として明治まで続いていきます。明治22年までこの3村は続きますが、町村制施行で上尾久村、下尾久村、船方村の一部が合併して尾久村になります。船方神社東方の悪水路より先の船方村の大部分は王子村へと合併された(現在ある北区堀船は堀之内村と船方村の地名を合わせたもの。正式にはほりふねだが、船方(ふなかた)から地名が来ているので学校名など一部でほりふなと呼んでいる)
尾久の近代史はまた次回に書こうと思いますが農村地帯だった尾久村は工場が進出し都市化が進んで大正12年には尾久町になり、昭和7年に東京市に編入され三河島町、日暮里町、南千住町と合併して荒川区となりました。尾久は慣習的には「おぐ」と読まれてきたと思います。昭和4年に国鉄東北本線に尾久駅が開設された時に「おく」と命名されてややこしくなりました。その経緯を書こうと思います。
尾久駅が開設された場所は北豊島郡滝野川町であって現在の北区昭和町で荒川区域ではありません。現在の尾久車両センターの前身である貝塚操車場ができたのは尾久駅が開設される以前の大正13年。地名からとって貝塚操車場と名付けられました。太古は海であったこの地域は多くの貝塚があったことから地名も貝塚となっていました。その後開通した旅客駅は貝塚駅として開業しても良かったと思うのですが、隣接する尾久に温泉があったことから温泉への客を誘致しようと尾久駅と命名しました。後に貝塚操車場も尾久操車場に改名されました。
さてここで問題なのですが、当時の鉄道省はなぜ尾久を「おく」と命名したのでしょう?尾久の地名の由来には、江戸の奥にあったから、豊島郡の奥、北東端にあったから「おく」になったという説もあって、鉄道省は「おく」が訛って「おぐ」になってるだけなので「おく」にしてしまったと言われています。秋葉原が「あきばはら」「あきばのはら」「あきばっぱら」なんて呼ばれてたのに、鉄道省が勝手に「あきはばら」と命名してしまったのに似ています。
まあ「おく」でも「おぐ」でも間違いではないのかもしれませんが、
地名としては「おぐ」と読むのが正しいかと思います。
ちなみにJRの駅名は「おく」ですが、都バスの停留所は「おぐえきまえ」ややこしいですね。
今回は尾久の地名の由来や古代、中世からの歴史など書かせていただきました。次回は荒川区の近現代を阿部定に絡ませて書かせていただきたいと思います
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