12月号では尾久は「おぐ」なのか「おく」なのかどっちなんだろう?という記事で尾久の近代史までの歴史を紹介しました。今回は阿部定事件にからめながら尾久の近現代史を紹介しようと思います。

- 尾久の成り立ち

尾久は上尾久村、下尾久村、船方村の三つの村から成っています。上尾久村は現在の西尾久、下尾久村は現在の東尾久辺りですが、範囲は一致せず飛び地があったり、現在の町屋や北区堀船あたりまで尾久の範囲であったりします。

明治22年の市制町村制の施行によって3つの村が合併して尾久村となります。他の荒川区域となる町村に比べ市街地化は進まずごぼうの産地など農業地域として推移していきます。

尾久1

農村地帯であった尾久にも産業が生まれていきます。明治の中頃にはいくつかのレンガ工場が生まれています。このあたりで産する荒木田土は粘着力もありレンガの製造にも適していました。隅田川の舟運もあり工業用水にも恵まれていました。現在の荒川遊園周辺にレンガ塀が残っているのはレンガ工場の跡です。広岡レンガ工場は大正11年に荒川遊園となります。現在のような子供向けの遊園地ではなく、温泉や演芸場のある大人の遊び場でありました。

広岡煉瓦工場1

広岡煉瓦工場2 

- 阿部定事件とは

さて、タイトルで書きましたが阿部定事件という凄惨な事件がなぜこののどかな尾久で起きたのでしょう?というか阿部定事件を知らない?という人もいると思いますので阿部定事件について説明します。

阿部定

現在の中野区の新井薬師門前にある料理屋の主人である石田吉蔵と仲居の阿部定は関係を持ったことが石田の妻の知るところとなり、二人で逃避行しました。

最後に流れ着いたのが尾久の待合旅館です。昭和11(1936)年、阿部定は性交中に石田を絞殺してアノ部分を切断し、それを持ったまま逃走し逮捕されたという猟奇事件です。


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その内容に日本中の耳目が集まり有名な事件となったのですが、そもそも二人はなぜ尾久に来たのでしょう?それは尾久が三業地として栄え温泉で多くの人が集まる場所だったからです。

農村地帯でレンガ産業が芽生えた尾久ですが、大正3年に碩雲寺(尾久警察署や尾久八幡神社の向かい側)で温泉が発見されます。

足を怪我した少年に寺の井戸水で洗ったところ血が止まったので、不思議に思った住職が水質調査をしたところラジウム鉱泉であることが分かりました。それからというもの温泉の施設が増え、更に温泉客を当て込んだ芸妓屋や料亭が増え三業地(料理屋 待合 芸妓屋)が形成されていきました。

碩雲寺

王子電気軌道(現在の都電)からの観光客を当て込んで、広岡煉瓦工場は大人の遊園地、荒川遊園地になりました。

昭和4年に国鉄の駅が開設された時も駅が尾久町に無いにも関わらず温泉客を誘致するために有名な尾久の名前を取って尾久駅が開設されました。ピーク時には芸妓屋598軒、芸妓数は300名以上と言う今では考えられないほど華やかなりし土地でありました。

あらかわ遊園

- 阿部定の人生

阿部定と言う人について書いてみましょう。

神田の裕福な畳屋に生まれた彼女ですが、少女時代に大学生にレイプされ、それが泣き寝入りとなってしまってから、不良として名を馳せ、芸妓から娼妓へと身を持ち崩し、何人もの男性と愛人関係になるなど荒れた生活を送っていました。名古屋市議会議員で中京商業学校校長であった大宮五郎と知り合うと、大宮は阿部定を更正させようと料理屋を紹介し、将来は店を持たせようと仲居として働かせました。

その料理屋の主人が被害者の石田吉蔵でした。プレイボーイとして知られる石田と阿部定は肉体関係となり、妻に察知され駆け落ちしました。あちこちを転々とした末に、温泉街尾久の待合旅館にやってきます。

石田を独占したい阿部定は首を絞める窒息プレイの最中に石田を絞殺し、 包丁で彼の性器を切断しました。逮捕されるまでの3日間、彼女はこれを持ち歩いています。そして彼女は血で、シーツと石田の左太ももに「定、石田の吉二人キリ」と、石田の左腕に「定」と刻みました。石田のステテコとシャツを腰巻の下につけていたといいます。

服役した阿部定ですが恩赦で昭和16年に出所。身元を隠して結婚したこともありましたが、阿部定だと言うことが分かって破局します。

劇団を起ち上げたり、客寄せにとスカウトされたりホステスや仲居をするなど職業を転々。バーを開店しましたが、従業員にお金を持ち逃げされ閉店。昭和42年に台東区竜泉でおにぎり屋を開業した後は、昭和45年に店をたたみ、最後は昭和49年に浅草の知人の旅館にかくまわれていたという証言を最後に姿を消しました。

石田の命日には山梨県久遠寺(阿部定が石田の永代供養の手続きをしたと思われる)に毎年花束が届けられていたといいます。昭和62(1982)年を境にこの花束が届かなくなったということから、この頃に亡くなったのではないかと推測されています。

- 事件のその後

事件をモチーフにした大島渚監督の「愛のコリーダ」は外国でも高い評価を受けました。事件後に新聞各社は男性器をどう表記して良いか悩み、「局所」や「下腹部」という言葉を使い、それが定着したといいます。

愛のコリーダ

石田吉蔵のうなぎ料理屋「吉田屋」は石田の死後、妻が切り盛りしていましたが、戦中に酒を扱う店の営業時間短縮を命じられて廃業します。板前見習いをしていた長男も戦死したために石田は港区南麻布仙台坂下の専光寺に無縁仏としてまつられています。

石田と同時期に定と関係があった中京商業校長で名古屋市議会議員であった大宮五郎は重要参考人として身柄を拘束され尋問を受けましたが、不問とされ釈放されたのちに役職を辞し隠居生活を送りました。定は石田を愛していたが、同時に大宮先生も非常に尊敬していて関係を絶てなかったと証言しています。

2人が最後に過ごした尾久の満佐喜は部屋に二人の写真を飾り、着ていたドテラや読んでいた主婦の友まで展示し、沢山の客で賑わいました。

定が逮捕された品川の旅館品川館も部屋をそのまま保存し、旅館の主人はスクラップブック片手にその夜のことを熱弁し、こちらも客で繁盛しました。逮捕前日に定をマッサージしたマッサージ師は新聞各社の取材謝礼で家を新築するほどだったといいます。

- まとめ

阿部定は直情で純粋であったのかもしれませんね。それが不器用で、その後も騙されたり、人に利用されたりもして。価値観が多様な現代であれば、もっと違った生き方もできたかもしれません。

人生の転機が何度か訪れても、それを棒に振って同じようなことを繰り返してしまうのも人の性なのでしょうか。他人の人生を客観的に見ると様々なことが見えてくるのかもしれませんね。

全然関係のない話ですが俳優の阿部サダヲは阿部定から芸名を取ったそうです。スマホで阿部定と変換しても変換できずに阿部サダヲと予測変換されるところに時代の流れを感じます。

というわけで、尾久と縁もゆかりもない阿部定がなぜ尾久に来て日本中を震撼させるような猟奇事件を起こしたのかと考えてみると、尾久には温泉があり、東京屈指のレジャースポットでもあって三業地で大人の遊び場でもあったのですね。

尾久の三業地

尾久の近現代史については続きをまた来月号に書こうと思います。