先月号では阿部定事件に絡めて尾久の近現代史を書きましたが、今月号ではその続きを書きます。
1.明治から大正にかけての電力事情と尾久に変電所ができるまで
荒川区となる地域の中では最も東京市街地から離れ農村地域の面影を残していた尾久ですが、明治の半ばになるとレンガ産業に適した土や、水運、舟運に恵まれてレンガ工場が立ち並びます。その後、温泉が発見されると、東京近郊屈指のレジャースポットとして賑わうようになります。レンガ工場は荒川遊園地と姿を変え、阿部定が猟奇事件を起こすなど、いまでは考えられない賑いでした。
明治から大正時代にかけての電力発電は火力発電されていました。東京電燈の千住発電所が南千住にありました(今の南千住第二中学の辺りとなります。
この発電所が廃止され、北千住に同名の火力発電所が造られるのですが、これがおばけ煙突として多くの人に知られています)。この火力発電にとってかわったのが水力発電です。水力による大規模発電が可能になり、その電気を長距離送電する技術も確立したことから電力会社が次々と興され、尾久に二つの変電所が建設されました。
明治末には発電所、送電線、変電所が建設されていき、大正2年(1913)年1月から、当時の日本最大級といわれる発電を栃木県鬼怒川温泉近くの鬼怒川水系で行う鬼怒川水力電気による電気の供給が開始された。
鬼怒川水力電気の電気は、東京鉄道(後の東京市電気局、現在の東京都交通局)と電力供給で契約を済ませていたので、すぐに東京市民の生活に使われることになりました。
猪苗代湖の水の出口、日橋川に造られた発電所は当時の世界第三位、東洋一といわれた規模で、大正4年(1915)年には猪苗代水力電気が、ここで作られた電気を高圧線電線の使用により225km離れた東京に電気を送ります。
猪苗代水力電気の電気は王子電気軌道に供給されました。王子電気軌道は東京市内城北地区の板橋区(練馬区も含む)、滝野川区、王子区(北区)、荒川区、豊島区。埼玉県下は北足立郡川口町(川口市)、北足立郡草加町(草加市)、南埼玉郡八幡村(八潮市の一部)に電力を供給して、東京市内では東京電燈(東京電力の前身の一つ)、東京市電気局(東京都交通局)に続いて営業収支TOP3に入る会社でした。
こうして発電のメインが火力から水力に変わったことによって、南千住にあった千住火力発電所は1917(大正6)年に廃止されました(第一次世界大戦後に水力、火力併用に見直され同名の火力発電所が対岸の足立区側に大正15年に建設されるようになりますが)。
余談ですが、当時の電力会社は電灯事業で余った電力で鉄道を経営しており、現在の大手私鉄の母体となっているケースが多いのです。利光鶴松が興した鬼怒川水力電気は小田急電鉄の親会社ですし、九州鉄道社長、若槻内閣の鉄道大臣、満鉄総裁を歴任した仙石貢が興した猪苗代水力電気は京王帝都電鉄の前身の一つであった帝都電鉄となる東京山手急行電鉄の親会社であり、王子電気軌道は現在の都電荒川線の路線と赤羽~王子の路線とバス路線を経営していました。
2.大規模電力による尾久の工業の興亡と、戦後にかけての住宅地への変貌
福島県や栃木県で作られた電気は荒川区まで送られ、そこから各地に送られていきました。これにはどのような影響があったのでしょうか。
街灯が増え、街が明るくなり市民の活動領域が増え、市街地化が進むと共に、家庭でも電気の利便の恩恵に預かる場面も増えたことでしょう。東京の生活が急速に電化していくことによって、電化製品の開発、販売が増え、現在につながる大企業も育っていったことでしょう。荒川区内においては苛性ソーダ製造の旭電化の大工場が出来るなど、工業地帯化が進んで、尾久の人口もわずか5年で6倍に増えています。荒川区や都内各地の産業発展に寄与したことでしょう。
こうして電力会社が増えたことにより、競争が激化し、電力戦争と呼ばれるような顧客の奪い合い、事業エリアに乱入などが行われ、猪苗代水力電気は大正12(1923)年に五大電力会社の一つに数えられる東京電燈に合併されます。
更に第二次世界大戦中には昭和13(1938)年には電力管理法が制定されて、国による電力統制が始まり、昭和14年(1939)年に特殊法人である日本発送電が発足し、昭和16(1941)年に鬼怒川水力電気(この頃は小田急電鉄の電気事業部門)も東京電燈も、全ての電力会社が日本発送電に合併されることとなりました。また、王子電気軌道は戦時中の電力統制、交通統制によって昭和17(1942)年に東京市電に事業譲渡して、鉄道路線は東京市電になり、翌年には東京都政施行により都電となりました。
戦後、日本発送電は昭和26(1951)年には解散し、9電力会社に分割され、関東エリアは東京電力の営業エリアとなりました。
猪苗代水力電気の変電所は東京電力田端変電所(荒川区東尾久5-31)鬼怒川水力電気の変電所は東京電力尾久変電所(荒川区東尾久1-21)となって現存しています。
東電尾久変電所
東電田端変電所
広大な敷地の施設で、近寄って見ると巨大な塔や高圧線、施設の建物が圧巻です。尾久変電所の近くには当時の名残を残すキヌ電通りの商店街があります。
尾久に二つの東京電力の変電所がある理由はこうした事情によるものでした。
電力供給により尾久の工業地化は進みますが、それと引き換えに工業用水として地下水の利用が過多となったせいか尾久発展の基礎となった温泉は枯渇してしまいます。温泉が無くなったことによって歓楽地としての性質は失い、工業地、住宅地となりましたが、近年は工業地も減り、尾久の原公園が造られるなど静かで暮らしやすい住宅地という印象になっていくのではないでしょうか。
不便なように見られる尾久ですが、JR尾久駅は上野東京ライン開通によって東京駅、品川、横浜までも直通で行ける利便性があります。東京が世界都市へと発展していく過程において尾久の貢献があったことは、歴史の片隅に忘れられることなく誇りとして伝えていきたいものですね。
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