今回は、南千住仲通り商店街の特集に合わせ、三ノ輪橋駅から南千住駅までの軽い1~2時間程度のまちあるきで南千住を再発見するルートを提案します。
「だっちゃん市」に来るついでに、周辺の史跡やお店も回ってみるのに参考にしてみてください。
地下鉄三ノ輪駅の大関横丁側の改札を出たところからスタートしましょう。
そこは日光街道と明治通りのジャンクション。昭和通りが日光街道と名前を変えるのはここからです。その昔はここは日光街道ではなく下谷道でした。ここからスタートして行ける散歩コースはたくさんあります。三河島、日暮里方面に歩くもよし。樋口一葉記念館、鷲神社方面に歩くもよし。しかし今回は南千住駅を目指します。
三ノ輪駅
まず駅を背に左手に曲がっていきます。カレンダー屋さんの先にこじんまりとした寺院が見えてくると思います。このあたりの住所は台東区三ノ輪ですが、もともとは荒川区側の三ノ輪も同じ一つの村であったところで、明治に入ってからの線引きで引き離されただけなので台東区であれ荒川区であれあまり関係ないと思います。
この小さな寺院は永久寺と言います。小さなお寺ですが南北朝時代から続くとの伝承のあるお寺です。ここには目黄不動があります。鉄道駅のある目白や目黒ならわかるけど「目黄?」と思う人もいるかもしれませんが、他に目青や目赤があり、江戸五色不動尊と呼ばれ、街道沿いに配置されて江戸の町を守護していました。
目黄不動
永久寺の先を左手に曲がっていくと浄閑寺があります。ここは俗にいう投げ込み寺です。近くには吉原の遊郭がありました。身寄りのない遊女が亡くなった場合、その埋葬を引き受けていたのがこのお寺です。
吉原と言うと風俗街を連想する人も多いと思いますが、江戸時代の吉原は流行の発信地でもあり華やかな場所でもあったようです。しかし華やかさの裏に哀史あり。吉原の遊女の菩提を弔う新吉原総霊塔や不慮な事故で亡くなった方などを受け入れてきた慈悲心の厚いお寺であります。江戸から近代までの歴史を違った角度から見てみる良い機会になるかもしれませんね。
浄閑寺
浄閑寺の前の道路は昔は川でした。荒川区、台東区境を成していた音無川から山谷堀が分かれるところで、山谷堀は分岐した後に隅田川に向かって流れます。そこに築かれていたのが吉原土手で今の土手通り。日本堤とも呼ばれていたので台東区にある日本堤の地名の由来にもなりました。有名な天丼屋さんの「土手の伊勢屋」の土手もここから来ています。昭和2年に取り崩されるまで土手がありました。
明治通りに出た所に架かっていたのが「三ノ輪橋」。都電の電停の名前にもなっていますが、下谷道が音無川を越える所に架かっていたのです。いわば一つの江戸と郊外の境界のような場所で大政奉還で水戸に蟄居しに戻る徳川慶喜を、幕臣山岡鉄舟が見送った場所でもあります。
国道4号線を北上します。ミシュランガイドのピブグルマンに選ばれたラーメン屋さんトイボックスや、老舗の桜せんべい、シャルロットは荒川のおすすめ品に選ばれているフルーツケーキも良いのですが洋菓子店でありながらナポリタンとか生姜焼きをイートインで食べられます。まちあるきの途中で立ち寄るのもいいかもしれませんね。
シャルロット
今は写真館になっている建物は「旧王電ビル」都電荒川線の前身、王子電気軌道の本社として昭和2年に竣工した歴史のある建物です。王子電気軌道は電車だけでなく電力会社でもあったようですが、戦時中の交通、電力統制により昭和17年に東京市に事業譲渡されました。
王電ビル
このビルの下をくぐっていくと都電荒川線の三ノ輪橋電停があります。都電に乗って都電沿線をぶらり歩くのも良いでしょうね
現在の国道4号線日光街道は江戸時代には下谷道と呼ばれ歴史もある道路だったので史跡が多い場所にもなっています。
王電ビルのあった場所も対馬藩宗家の下屋敷跡。下屋敷とは郊外におかれた別邸のような役割のあるお屋敷で、この界隈は大名、旗本の下屋敷が多かったところです。大関横丁と言う交差点があるのも栃木県の黒羽藩主大関家の下屋敷があったからです。
公春院はかつて樹齢500年と言われた有名な証拠の松と呼ばれた有名な松があったところ。真正寺はかつては門前町もある大きなお寺だったようです。この道路沿いは通新町と言い東京15区が発足したときは下谷区に所属したようです。
円通寺は上野にあった黒門が移築されたお寺として有名です。黒門には彰義隊の戦争で打ち込まれた弾丸の跡が残っています。彰義隊の墓、源義家が奥州征伐の際に築いたと伝わる塚が、南千住の古来の地名である「小塚原」のルーツになったともいわれてます。
円通寺黒門
もと来た方向に引き返します。
蒲焼のいい匂いがする丸善でテイクアウトの鰻を買いたいところ。ここで信号を渡ってもつ焼きの美味しい栃木屋の角を曲がったら南千住仲通り商店街。ここは下町のテイスト香るどこか懐かしい雰囲気の残る商店街です。下町以外から来る人が居たら下町感を感じられるかもしれませんね。某散歩番組などでも紹介されています。
南千住仲通り商店街、三ノ輪側入口
生活と密接な結びつきのある雰囲気を感じることで、その土地ならではを感じ取ることが「まちあるき」なのではないかと考えています。「散歩」とは目的を特に定めずに自由気ままに歩くことを言い、「まちあるき」はそこに住む人の息吹を感じながら土地の歴史や文化を知り、その土地ならではを体感していくことを言うのではないかと思っています。観光地ではない商店街にこそ、その土地ならではの魅力があるのではないでしょうか。
豊川稲荷を過ぎると商店街を出ます。
右手に曲がると小塚原回向院があります。ここは小塚原刑場で刑死した人を弔うために建てられたお寺です。幕末維新の立役者で近代日本を雄飛させた人材を育てた吉田松陰の墓があります。改葬されて遺骨はありませんが当初はここに葬られました。安政の大獄で刑死した橋本左内や様々なエピソードの人物のお墓が歴史コーナーに集められています。小塚原刑場は政治犯が処断されることが多かったようです。また杉田玄白、前野良沢が腑分けを行って解体新書を書き上げた事跡から、ここは日本における近代医学の発祥の地ともいえるのではないでしょうか?
回向院入口
更に電車のガードをくぐった先には延命寺の首切り地蔵があります。首切り地蔵と聞くと怖い感じもしますが、刑場の露と消えた人たちが成仏できるように穏やかな表情で見守ってきたお地蔵さんであります。
小腹が空いたら並びにある重盛の人形焼を買っても良し。線路のわきを曲がってミシュランガイド掲載店の「尾花」で鰻を食べても良し。ここは行列必至で、注文してから割いて焼くので時間がかかるのですが、それだけ時間をかけても価値のある料理が食べられると思います。
尾花
またもと来た道を戻って線路を越えて二つ目の信号を渡りましょう。
渡った先には栗本商店と書かれた建物があるのですが、ここが東京漫才発祥の地です。東京の演芸においては漫才の地位は低く常打の寄席(常設で漫才を興行できる場)がありませんでした。 そこで、栗本商店の栗本氏が昭和30年に自宅兼店舗を改装し本格的な演芸場を作ったのが栗友亭です。昭和34年に閉館になりましたが、東京漫才発祥の地と言われる所以があります。
栗友亭
この前を通る道路が「コツ通り」で小塚原の地名から「コツ」の名前がついたと言われています。国道4号線の方ではなく、こちらが元々の奥州道中、日光街道です。
ここまで歩いて夕方だったら名物女将の大坪屋で一杯(日曜日はお休み)でもいいし、ブランズタワーの1階にあるスヴニールも可愛いケーキがたくさんあるのでお土産に買って帰っても良いですね。スヴニールの前を通り抜けると南千住駅です。
今回紹介したコースは見学時間も含めてゆっくり歩けば2時間ぐらい。早く歩けば1時間ぐらいで歩けてしまうので、歩き慣れてない人でも気軽に歩けると思います。
街に出て五感で街を感じることによって荒川区の歴史の深さとか、遊郭、刑場など江戸の周縁独特の地理環境から表からだけでなく裏からも歴史を見てみたり、荒川区にも美味しいものがたくさんあったり、商店街から下町の生活文化を再発見してみたり、ちょっと考察しながら歩くと今まで見えて来なかった荒川区の良さが「じわじわ」と見えてくるのではないでしょうか?
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